2022/11/02

今日のおたく

イキって5時起き定着宣言した翌日に爆発的寝坊して笑っちゃったし、シェルスクリプトをしばいて進捗報告して研究会資料書いてたら一日終わった

カレンダー見てたら明日は休みらしいことに気づく
最近は祝日が憎くてたまらない、狂ってきている、何かが……。


理解・配慮・うんち

例えば何らかの「配慮」や「理解」をされなければならない人がいたとして、そうすると対になるように「配慮」や「理解」をする人間が存在することになる。じゃあそれをドシドシ実行するのが道徳ってモンでしょうと思うけど、実際はそうする側が何らかのコストを支払わなければならないわけで、結局これは利害を伴う対立構造だから、陥った時点でもうどうしようもなくなっている。

人間は誰しも気づかないうちに譲歩したりされたりしていて、気づかなければ当然なんとも思わないところだけども、そのコストのやり取りが可視化された途端に険しい気持ちになってしまう……という人は少なくない。本当は配慮や理解といった積極的なアクションは必要なく、ただ変化に対して寛容であればいいだけな気もするが、それはそれでむちゃくちゃ難しい。自分に全く関係ないところからわけわからんキレ方をして襲ってくる奴はいっぱいいて、俺もそう。

結局正解は、「配慮」や「理解」が必要なシーンがそもそも発生しない仕組みを作ることなのではないか、そしてそんなん作れたら苦労せんのじゃという主張は全くもって正しくて、それでも全ての人間に理性や道徳あるいは寛容を求めるよりは、そういうコンフリクトが発生しないような仕組みを追求していくほうが多少は簡単で現実味があるのではないか。

感情として、団体が個人に対して使うならともかく、個人が個人に対して「理解」や「配慮」といった言葉遣いを平然とするのはうわキッショ!という気持ちがある。知らん他人から「配慮しろ!」と言われれば正直ムカつくし、知らん他人から「理解するよ~」と言われてもお前誰やねんこっち来んなやって思う。これはシンプルに俺の性格が悪い。

いろいろあってムズいけども、社会がどうあるべきかなんて21世紀に解決することでもないので、ごく個人的な信条として、なるべくフラットに寛容、動じない人間でいるのがいいなと思う。

まあ、それが出来たら苦労せんのじゃという話なのだが……


今日の桂

桂には夜景がある